青山商事創業者物語:青山五郎の不屈の魂と革新の軌跡
青山商事は、1964年(昭和39年)の創業以来、「常に消費者とともに歩むこと」という一貫したモットーのもと、業界の常識を打ち破る革新的な経営を続けてまいりました。これは、創業者・青山五郎の、病に倒れ進学を断念した若き日の挫折から湧き上がった不屈の精神と、「日本一の洋服屋になる」という壮大な夢から生まれたものです。
この物語は、「洋服の青山」を一代で築き上げ、紳士服業界の常識を塗り替えた青山五郎の挑戦と革新の半世紀を振り返るものです。
挫折を乗り越え、兄たちへの対抗心を起業の炎に
進学断念と「負けじ魂」
青山五郎は1930年(昭和5年)、府中市で宮大工の父親の元、7人きょうだいの五男として生まれました。教育熱心な父のもと、兄たちは東京大学や東京工業大学に進学。自身も旧制高校から大学進学を断念するという大きな挫折を経験します。
この進学断念は、青山五郎にとって大きなショックでした。兄たちに「差をつけられた」と感じた彼は、「30歳になって、世間から信用されるようになったら、商売で一旗揚げるしかない」と心に誓います。地元の大蔵省専売局での経理業務を経て、34歳になった1964年、「脱サラ」して念願の起業を果たしました。
「大学に入れば官僚になるつもりだった。病気にならんかったら、今は無かったかもしれんな。あの時の負けじ魂が『洋服の青山』の出発点といえる」と語るように、病による挫折は、後の革新的な経営の原点となったのです。
「日本一」を目指した創業と三つの誓い
兄弟4人でスタートした多角経営
青山商事は、1964年(昭和39年)、青山五郎の故郷、府中市の自宅を改造した10坪(約33平方メートル)ほどの洋服店からスタートしました。創業時の社員は、社長である青山五郎と実弟、そして妻の弟2人の兄弟4人でした。
当初、紳士服だけでは経営が成り立たず、漬物、干物、清涼飲料水など、あらゆるものを手掛けました。「青山商事」という社名も、「もうかりそうなものは何でも売っていくつもり」という考えから名付けられました。
「日本一の洋服屋」への決意と信条
創業初日の夜、青山五郎は兄弟に対し、「どうせやるなら、日本一の洋服屋になろう」と宣言しました。そして、「会社が大きくなっても経済界に入らない」「ゴルフをしない」「自家用車に乗らない」という三つの誓いを立てたのです。
これは、「常識的な考えに染まらない」「社員が働いている時には遊ばない」「いつも社員と一緒に仕事をする」という、彼の強い信条に基づいています。この信条こそが、青山商事の企業文化の核となりました。
苦難の時代と職域販売
創業当初は資金繰りに苦労し、仕入れ先の信用を得られず、商品を現金で買い取り、顧客へは月賦で販売するという厳しい状況が続きました。しかし、紳士服がまだ高嶺の花だった時代に、既製服が今後大衆に普及すると見越し、店頭だけでなく、車で企業を回る「職域販売」も積極的に実施。専売局時代の人間関係を生かし、多くの労働組合を指定店にしてもらうことで、苦難の創業期を乗り越えました。この時期、小学校時代の同級生をはじめとする地元の友人たちは、ご自身にの自宅を借金の担保に差し出してまで、公私にわたり献身的に支えてくれました。
郊外型店舗の開拓と業界の盲点を突いた革新
青山 西条店」
(1998年の改装時)
米国視察で着想した郊外戦略
創業5年目で売上高1億円を突破した後、1972年(昭和47年)、青山五郎は米国視察で、サンフランシスコ郊外の巨大ショッピングセンターのにぎわいを目の当たりにします。都市中心部から離れた場所で、買い物客がマイカーで次々とやってくる光景から、日本にもモータリゼーションの波が必ず来ると確信しました。
帰国後、顧客アンケートを実施し、顧客が求める「品ぞろえの豊富さ」と「立地の良さ」を満たすには、従来の中心街の約5倍となる150坪(約495平方メートル)の広い店舗が必要だと結論付けます。
そして1974年(昭和49年)、土地が安価でマイカーでのアクセスが良い、都市中心部と郊外を結ぶ幹線道路沿いの交差点に、日本初の郊外型紳士服店「洋服の青山 西条店」(東広島市)をオープンさせました。開店直後のPR不足による苦戦を、半径15キロ圏内全戸への毎週末のチラシ広告により克服し、郊外型店舗の成功モデルを確立しました。
完全買い取り制
さらに青山五郎は、紳士服業界の旧態依然とした商慣行にもメスを入れます。当時の業界では、売れ残りのリスクを小売店が回避できる「委託仕入れ」が主流でした。しかし、この方式はメーカー側の返品リスクや販売員派遣費などが上乗せされるため、最終的に消費者が高い価格で商品を買わされる構造になっていました。
そこで青山商事は、シーズン初めに注文した全商品を現金で買い取り、返品しない「完全買い取り制」を導入。これにより、メーカーは返品・在庫管理費などを削減でき、小売店は仕入れ値を大幅に引き下げることが可能となりました。
「完全買い取り制」と「郊外型店による経費削減」を組み合わせることで、競合他社と同等の商品を半額程度で提供しながら、業界平均を上回る高い粗利益率を確保。この利益で大量の広告宣伝費を投入し、集客力をアップさせ、売上増で大量発注を可能にする。そして、それがさらなる安い仕入れにつながるという、独自の「ビジネスモデル」を確立し、爆発的な成長を遂げました。
最大の危機と意識改革、そして「日本一」への到達
脳梗塞と経営の原点回帰
1983年(昭和58年)に売上高100億円を突破し、郊外型店の展開が独走状態となる中で、同業他社の参入により競争が激化。東日本への進出(85年)でつまずき、86年3月期には減益決算となります。そして同年9月、青山五郎自身が脳梗塞で倒れ、3カ月間の入院を余儀なくされるという、最大の危機を迎えます。
入院中の病室を臨時経営本部とし、指揮を執る中で、彼は「トップを走ってきた油断とおごりから、社員の意識が下がっていた」という会社の現実を痛感しました。
徹底した社員の意識改革と上場
退院後、業績悪化と同年中の株式上場という喫緊の課題を前に、青山は徹底した社員の意識改革に乗り出します。
「流通業は店長が支える産業」として、全国の店長を鼓舞。 店長が接客から離れ、販売チャンスを逃している現状を打破するため、「店長率先販売」を義務化。店長にはトップセールスを維持する目標を課しました。
一方で、店の経営権を店長に与え、目標達成時には最終利益の1%を還元する報奨金制度を設けるなど、現場の意識を根本から変革しました。
「お客さまと一緒に商売する」という原点に立ち返り、来店客の目的を読み取り、何も買わずに帰る客には必ず声をかけるなど、顧客第一主義を全社員に徹底しました。
この必死の改革と奮闘により、業績を回復させ、1987年(昭和62年)11月、大阪証券取引所二部などに念願の株式上場を果たしました。
逆転の発想、銀座進出で業界トップへ
上場後も「競合他社に勝とう」と社員を鼓舞し続けた青山は、バブル崩壊後の好機を捉えます。郊外で成功を収めてきたにもかかわらず、都心の不動産価格下落を背景に、1992年(平成4年)10月、「洋服の青山 東京銀座店」をオープンさせます。
「日本一地価が高い場所で、日本一安いスーツを売る」という「逆転の発想」は功を奏し、オープン初日に長蛇の列を作り、社の新記録となる売上高1億円を達成。郊外から都心への進出は、空洞化していた都心の購買需要を掘り起こし、全国の店舗へ波及効果をもたらしました。
そして1991年(平成3年)3月期、青山商事は売上高、経常利益ともに業界トップとなり、創業時に掲げた「日本一の洋服店」の目標に到達したのです。
郷土への恩返しと飽くなき挑戦
地域貢献と変わらぬ信条
青山五郎は、創業の地である府中市から福山市へ本社を移した後も、郷土への愛着を持ち続けました。会社が大きくなったのは地元のお客様に可愛がってもらったからだという感謝の思いから、1993年には福山市へ20億円を寄贈しました。
会長となった後も、彼は店舗開発と販売促進に専念。「道は真っすぐより緩やかなカーブがいい」といった出店地の選定や、チラシによる販促戦略など、自身の経験と勘に基づいた経営にこだわり続けました。
「未完だからこそ、人と企業は成長する」という言葉を信条とし、喜寿を迎えてもなお「体が動く間は、仕事をやり続けるつもりだ」という「頑固たれ」としての魂を持ち続けています。
結びに
青山商事の創業の物語は、一人の起業家の「負けじ魂」が、業界の常識を打ち破り、新たなビジネスモデルを創造した歴史です。
「日本一の洋服屋になる」という熱い決意。「完全買い取り制」と「郊外型店舗」を核とした独自のビジネスモデル。そして、幾多の危機を乗り越えながら貫き通した「顧客第一主義」と「郷土への感謝」。
この不屈の精神と革新のDNAこそが、青山商事の揺るぎない礎であり、未来への成長の原動力です。私たちはこれからも、創業者の精神を受け継ぎ、社会に貢献し続ける企業を目指してまいります。