創業者 青山五郎

わが日々

第2話創業への誓い日本一へ3つのルール

青山商事は1964(昭和39)年、青山五郎氏の故郷、府中市の洋服店から出発した。創業時の社員は、青山会長と兄弟3人。青山会長は、3人の兄弟に「日本一の洋服屋になる」と宣言し、3つの誓いを立てた。

府中市の商店街にあった自宅を改造し、最初の店を立ち上げた。10坪(33平方メートル)ほどの広さで、社員は、社長の私と実弟の睦雄(現相談役)、妻の弟の宮前洋昭(同副会長)、同じく省三(同副会長)の4人だった。実弟の睦雄がラシャ(毛織り生地)の会社で働いていた経験もあり、紳士服を扱うことにした。
最初のうちは、紳士服だけではやっていけず、漬物や干物など地元産品から、清涼飲料水まで手掛けた。「青山商事」という社名も、もうかりそうなものは何でも売っていくつもりだったからだ。
5月の創業初日の夜、4人の兄弟でコップ酒の祝杯を挙げながら、私は「どうせやるなら、日本一の洋服屋になろうや」と大見えを切った。ほかの3人は冗談でも聞くような、驚いた顔でうなずいていたが、私は本気だった。

青山商事が創業した府中市府中町の商店街。右手前の駐車場が1号店跡

青山商事が創業した府中市府中町の商店街。右手前の駐車場が1号店跡

「経済界には入らない」

だから、3人には「会社が大きくなっても経済界に入らない」「ゴルフをしない」「自家用車に乗らない」という3つの誓いを立てた。常識的な考えに染まらない。社員が働いている時には遊ばない。いつも社員と一緒に仕事をする。いったん口にしたら、実現するまで、とことんやり抜く。それが私の信条だ。
当時はまだ、背広がそれほど普及していなかった。オーダーメードが主流で、サラリーマンにとっては高根の花だった。既製服の背広が出回り始め、これからは大衆を中心に、どんどん伸びるとみた。けれど、素人同然で始めた商売は、甘くはなかった。
仕入れ先の信用を得られず、仕方なくメーカーから現金で仕入れて売った。店売りだけでなく、ライトバンに乗って、地元企業の購買部などを回る職域販売もやった。この時、サラリーマン時代の人間関係が役に立った。専売局では、労働組合の幹部を務めたこともあり、労組関係者に顔見知りが多かった。ほとんどの労組が指定店にしてくれた。

苦難の時代 友人が支え

とにかく資金繰りには苦労した。現金で仕入れた商品を、サラリーマンのお客さんに月賦で販売する。6回の月賦払いにすると、半年間は売掛金が回収できない。いつも、つなぎ資金不足に悩み、眠れない日もあった。そんな時に救ってくれたのが、小学生時代の同級生をはじめとする地元府中の友人たちだ。自宅を借金の担保に差し出してくれるなど、苦難の創業時を支えてくれた。

(古川竜彦)

出典 : 平成18年4月5日

中国新聞朝刊掲載