青山商事は1985(昭和60)年4月に「洋服の青山 青森店」をオープンさせ、東北進出を果たした。しかし、思うように売り上げは伸びず、86年3月期で減益決算に。そして同年9月、青山五郎氏は突然の脳梗塞(こうそく)に倒れ、年末まで3カ月間の入院生活を余儀なくされた。56歳。働き盛りだった。
独走状態だった郊外型店の展開も83年ごろ、高い収益性に気付いた同業他社が続々と参入してきて、厳しい競合が始まった。うちも地盤の西日本から東日本へ打って出た。85年には、青森店を手始めに、東北地方一円で20店近くを一気に出した。私自身が現地に足を運び、慎重に場所を選んだ。自信満々の出店だったのだが、期待は裏切られた。
青山氏が3カ月間入院し、臨時の経営本部になった病室
(部屋は現在、改装され当時と異なる)
あとから気付いたことだが、きめ細かな状況分析が甘かった。東北地方のお客さんは、関西弁の商売人に対する抵抗感が強い。かつて近江商人に、さんざんひどい目にあったためだと聞いた。うちの店は、関西から派遣した社員が主力で、見事に拒否反応を示された。商圏などの分析に加え、地元の文化、習慣、歴史などの把握も大切だと痛感した。
東北出店のつまずきが響き、86年3月期には大幅な減益決算を強いられた。そのままでは、東日本での出店計画を見直さなければならないほどだった。まずいことは重なるもので、テコ入れに本腰を入れた同年9月、私自身が突然、脳梗塞で入院した。長年の疲労と大酒が原因だった。
入院翌日から福山市北部にあった病院の個室が経営本部になった。業績は依然上向かず、私が指揮を執るしかなかった。稟議(りんぎ)書を持参した社員を怒鳴りつけることもあった。その社員は、看護師からも「社長を怒らせないでください」としかられたらしい。
仕事場を離れ、見えにくかった会社の現実が分かってきた。トップを走ってきた油断とおごりから、社員のモラルが下がっていた。急速な店舗展開のしわ寄せで、コスト意識も甘くなっていた。最大のピンチといえる入院だったが、経営の原点を見直すチャンスと受け止めた。リハビリにも気持ちの張りが出てきた。
しかし、3カ月後の87年1月、退院して会社に戻ってみると、予想以上に業績が悪いのに驚いた。3月末の決算期末に、ほとんど利益を計上できない状態だった。このままだと、同年中に予定していた株式上場が吹き飛ぶ。そう思った。残る3カ月間は夜も寝ずに働いた。知恵を絞り、指示を出した。なんとか16億円の利益を上積んだ。同時に、社員の意識改革が待ったなし、との思いを強くした。
(古川竜彦)
出典 : 平成18年4月11日
中国新聞朝刊掲載