創業者 青山五郎

わが日々

第8話日本一の洋服店逆転の発想 銀座に進出

青山商事は1991(平成3)年3月期、売上高868億円、経常利益216億円に達し、それまで業界トップだったタカキュー(東京)を抜いた。青山五郎氏が創業時に掲げた「日本一の洋服店」の目標に到達した。

87年に株式を上場してからは、競合店対策が当面の課題になった。新たな地域に出店すれば、必ず既存の競合店とぶつかり合う。言葉は悪いが、やるか、やられるかの陣取り合戦だ。あきらめたら、必ず負け癖がつく。歯を食いしばって頑張れ―と店長から社員、パートさんにいたるまで鼓舞し続けた。
売上高、利益で日本一になったといっても、浮ついてはいられなかった。全国どこでも、お客さんに一番良い紳士服店として支持されなければ、いずれは陣地を失ってしまう。何事にも満足できないのが性分だった。変えようはない。

1992年のオープン時、低価格スーツで旋風を起こした「洋服の青山 東京銀座店」

1992年のオープン時、低価格スーツで旋風を起こした「洋服の青山 東京銀座店」

バブル崩壊で好機到来

だから翌92年には、競合他社を一気に引き離すため、92店の出店攻勢を掛けた。全国展開で最後に残る関東地方に全力を注いだ。バブル経済がはじけ、景気は冷え切っていたが、うちには好機到来だった。都心の不動産価格は下落し、賃借料を押し下げた。金融を中心に店舗の統廃合が進み、空きスペースも増えた。そして同年10月、東京のど真ん中に「東京銀座店」をオープンさせた。
74年、東広島市に業界初の郊外型店をオープンして以来、マイカーで買い物できるロードサイドに店舗を展開してきた。高い利益を確保しながら、できるだけ安く良いスーツを消費者に提供する選択だった。その結果、業界こぞって郊外へ店舗を移し、都心には、消費者が求める買い物をする場が空洞化していた。

矛盾追求が経営の本質

物件はより取り見取りだったが、出店コストは割高につく。社内では出店を決めた後も、いろんな意見が飛び交い、採算に合った価格設定を求める意見が強かった。日本一地価が高い場所で、日本一安いスーツを売る―。一蹴(いっしゅう)した。矛盾を追求するのが経営だ。オープンセールで九割引きにした2,500円のスーツに長蛇の列ができ、他の商品も飛ぶように売れた。初日の売上高は1億円で、社の新記録だった。郊外から都心へ―。逆転の発想が再び功を奏した。
90店を超す出店を追い風に93年3月期、売上高は一気に1,500億円を超え、300億円強の経常利益を確保した。東京銀座店がマスコミに取り上げられ、全国の店舗に波及効果をもたらした。消費不況のさなか、最も難しいと思っていた関東進出をスムーズに果たせた。運が良かった。振り返れば、この年は大きな節目だった。競合他社に対し、圧倒的な格差をつけていた。

(古川竜彦)

出典 : 平成18年4月13日

中国新聞朝刊掲載