創業者 青山五郎

わが日々

第4話日本初の郊外型店PR不足 チラシで解消

1973(昭和48)年、日本経済は第一次石油ショックに見舞われ、高度成長に終わりを告げた。その翌74年、青山五郎氏は、米国視察の経験をヒントに、日本初の郊外型紳士服店を東広島市にオープンさせた。

米国では自動車社会が成熟し、ショッピングの場は、都市の中心部から広々した売り場と駐車場を持つ郊外店になっていた。ただ、米国の方式を土地の狭い日本にそのまま導入するのは無理だった。
高度成長を経て、兼業農家が急増していた。地価も上昇し、街の真ん中に家を持つのが難しくなった。郊外に次々と造られた団地も、ドーナツ化が進んでいた。マイホームのある郊外と街の中心部を結ぶ交通手段として、マイカーは確実に定着すると思った。石油ショックがやって来たが、考えは揺らがなかった。

日本初の郊外型店となった「洋服の青山 西条店」 (1998年の改装時)

日本初の郊外型店となった「洋服の青山 西条店」
(1998年の改装時)

顧客にアンケート実施

顧客1,500人を対象にアンケートも実施した。紳士服を買いたい店として「品ぞろえの豊富さ」と「立地の良さ」を挙げる人が、全体の6割強に上った。品ぞろえの充実には、広い店が必要だった。
満足してもらえる品数を試算すると、サイズ・色・デザイン別で、スーツ1,200着、ブレザー700着、ズボン1,200本、礼服400着となった。これだけの商品を扱うには、150坪(495平方メートル)の広さが欲しかった。当時、中心街にあった紳士服店は約30坪(99平方メートル)ほど。賃借料などを考えれば、これほど広い店を中心街に確保するのは無謀で、土地の安い郊外しかなかった。
車での買い物に適した立地を考え抜いた。まず、都市中心部と郊外を結ぶ幹線道路沿いで、生活道路との交差点も条件に加えた。そして選んだのが、広島市から東へ約40キロ、ベッドタウン化が急速に進んでいた東広島市西条町だった。

社運懸け好立地に出店

日本初の郊外型店「洋服の青山 西条店」は、社運を懸けた出店だった。国道2号と生活道が交わる交差点で、申し分のない立地だった。ところが、開店から1、2時間たってもお客さんがやってこない。これにはまいった。
調べてみると、地元の人が店のオープンを知らなかった。PR不足だった。それまでの店は駅前などの繁華街にあり、宣伝しなくても、お客さんは集まった。とにかく、店の場所を知ってもらおうと、チラシを作った。店の半径15キロメートル以内の全戸に毎週末、チラシを配り続けた。半年後にやっと効果が出始めた。
「青山は大丈夫か」という同業者の冷ややかな言葉も聞いた。けれど、チラシ作戦の力は絶大で、お客さんが目玉商品に殺到するようになる。この時始めたチラシ作戦は、やがて「青山の紙爆弾」といわれるようになった。

(古川竜彦)

出典 : 平成18年4月7日

中国新聞朝刊掲載