創業5年目の1969(昭和44)年3月期、青山商事の売上高は1億円を突破した。相変わらず資金繰りに苦労していたが、特産品などから手を引き、紳士服販売に一本化。青山五郎氏は72年、視察に出掛けた米国で、自動車社会の進展を目の当たりにした。
私の呼び掛けで68年、年商1億円前後に上る全国各地の洋服店280社が集まり、ボランタリーチェーンを立ち上げた。仕入れや販売促進、店舗運営などで協力し、スーパーなど大手量販店に対抗するのが狙いだった。各地の一番店ばかりで結成したので、「日本洋服トップチェーン」と銘打った。
創業間もない青山商事の社員旅行。最前列右から2人目が青山五郎氏
(1967年、奈良市の東大寺)
チェーンの加盟店には、長野県を地盤にした「AOKIホールディングス」や岡山県の「はるやま商事」、福島県の「ゼビオ」などがあった。私は副理事長に就き、実践で体得した商売の仕方やアイデアを洗いざらい伝え、加盟店を指導した。これらの店はその後、最大の競合店になる。「昨日の友は、今日の敵」だ。
ボランタリーチェーンをつくる一方で、主要な駅前に相次いで姿を現していたショッピングセンターに注目した。スーパーと専門店などが数多く入居し、圧倒的な集客力を誇っていたからだ。つてを頼って、ダイエーの中に出店させてもらえるようになった。69年の尼崎店(兵庫県尼崎市)をはじめ、72年までに計7店をダイエー内に出店した。
高度成長が、大衆消費社会を本格化させた時代だ。駅前のショッピングセンターでは、店内を楽しみながら見て回り、気に入った商品を衝動買いする客が多かった。紳士服の売れ行きも順調だった。
ところが、石油ショック直前の72年ごろになると、様子が一変した。景気の落ち込みで、消費者の財布のひもが固くなった。衝動買いも影をひそめ、まちの一等地のメリットを生かせなくなった。いつまでも、駅前に店を構えていて大丈夫か―。不安を覚えた。
ちょうど同じ72年、ボランタリーチェーンの仲間約300で、米国へ視察旅行に出掛けた。サンフランシスコ郊外の巨大ショッピングセンターを訪れた際、そのにぎわいぶりに驚いた。まちの中心部から約100キロ離れた荒野の真ん中に建っていながら、買い物客が続々とマイカーでやってくる。車でショッピングに出掛けるのが生活の一部になっていた。
モータリゼーションの影響を肌で感じた。やがて日本にも、その波が来るはずだ。帰国したら、じっくり今までの商売のやり方を見直し、車社会を念頭に、新しいタイプの店をつくろうと決めた。
(古川竜彦)
出典 : 平成18年4月6日
中国新聞朝刊掲載